今の私には「助けないボランティア」が必要だ。

今の私には「助けないボランティア」が必要だ。

2020年5月16日 0 投稿者: smileworld

私は、アフリカの教育支援をしたい。

その思いで、視野が狭い自分は、ストレスもあった教諭という仕事をやめ、アフリカに行ったわけですが。

その時に

「支援をしたいから、お金をあるうちは出さなくてはいけない。」

「支援するといったのだから、何か結果を出さないと、日本にいる自分を知っている人たちの期待に応えてすごいことしないと。」

という

「罪悪感」みたいなものに

呪われていたのではないか。

と、最近思うきっかけがありました。

助けてと声を上げるのはとても大事なことで、

だけど、その助けてと言っている人の話を聴いている人。

困った顔を見ているのが気になるだとか、

自分が助けなくて、助けてと言っている人が元気がないと

「なんか申し訳ない」

と感じてしまうまま、活動を行うことは、

非常に危険なことなのではないかと。

また、「助けられてきた人」が、毎回、私のような感情を持った人と出会うと

いとも簡単に助けられてしまうことで

その人の成長は一つもないのではないかということ。

よく、「魚をあげるのではなく、魚の釣り方を教える」という

ボランティアの言葉がありますが、

「いつも助けてもらうのがあたりまえ」という思考も

「魚」を与えることかもしれない。

そもそも、

「与えるまえに、自分がちゃんと魚確保できていて、気持ち余裕ある?」

ないまま、自分の魚を

「助けないと申し訳ない。だって私魚、まだあるし。。あの人たちは1匹もないから・・・。」

と、本当は予定立てて食べたい量確保してあったのに、我慢して魚を与えてしまう。

これって、「ダメンズ」を育てる過程と同じかもしれませんし、私には多分小さいころからの「罪悪感」と向き合っていくよい機会だと思います。

私なりに、「本当に助ける」とはどういうことか、少し考えてみました。

【与えた後、ほっとした場合は危険】

コロナの影響で、私の大好きなお店が自粛になったとき、

私は、「行ったつもり寄付」をしたり、あえて一人で行ったりしました。

金額も、「失ってもいい」と思える金額です。

私は、与えたあとに、

「わー。喜んでくれたらうれしいなぁ。与えられてうれしいな。」と思いました。

使ってうれしいんです。お金って。

アフリカのレストランなどで失敗したとき、ボランティア活動を思いだすと・・・。

「困ったことにならなくてよかった。。。」「なんとかなった。」

を味わいたくて、

払いたくもないものにたくさんお金を払っていました。

「助けようという愛」のためです。

ほっとはします。でも、うれしくなかったです。

この二つは大きな違いです。これが「ボランティアは偽善だ」と言われる理由なのではと思いました。

偽善=偽の善と書きます。

この善は「自分に対して善」を向けているか。

相手の「善」だけ考えているのは「偽善」です。

ああ。。。。私は「偽善者」だったんだ。

今、私はあることに対して「助ける」ことをしていません。時に罪悪感が襲い掛かります。でも、負けません。助けません。ほっときます。それが、最終的にはどちらも「善」になると信じます。

【今度旅でいろんな場所に行くときは】

「何か、できることはあるだろうか。」で旅をすることはもうしないと思います。

私の思考。今考えるとちょっと気持ち悪い。

何かできることがあるか=困っている人はいないか=困っている人を探している=困った人が好き 大きなお世話です。

何か、できることがあるか で探しているうちは探す必要がないってこと。

そのうち、「ここにお金を与えたい。使いたい!」この自分の気持ちをまず聴かなければ。助けての声を聴く前に。

コロナで自粛したお店に私「あげたい。」と思ってすぐ行動に起こせたのだから。

海外で何かを始めたい。でもわからない という人は

ボランティアのことなんて、まずは一つも考えず

世界に友達たくさんつくろう。知らない景色見よう。

でいいと思います。私は今度はそうします。

そして、日本人だからお金持っているという感覚を味わって、何かお願いされたとしても

にこにこ話を聴く。別に助けなくていい。

私は助けないけど信じる。その人はできると。

そういう人間関係を築いておけば、

私は、もう少し、アフリカ・トーゴで過ごせていたのではないかと感じています。きっと、今NPOなどで、うまくいっているひとたちは、私のような勘違いをせずやれてきた人だと思います。私は国際協力・力が足りなかったなぁ(笑)

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